経ヶ峰の参道を上ると鮮やかな紅葉に包まれた瑞鳳殿の入り口が見えました。きらびやかに装飾を施された瑞鳳殿(霊廟)とともに、隣接した資料館を見学することができました。12月2日(土)のことです。
資料館には戦災消失後の再建に伴う遺骨の調査データをもとにして作製された政宗の実物大の全身像があり、その顔立ちに興味を持ち見入りましたが、身長は158cmだったと記載されていました。偉大な人物なのですがとても親しみを感じ、心に残り、これからもその印象を忘れることはないと思います。
伊達家第2代、第3代の霊廟にも参拝しましたが、その帰り道、いかにも堂々とした樹木の古木の根元のくぼみに、なんと、お茶の幼苗が30cm程度に伸びひょっこりと顔を出していました。残念ながら樹木には疎いので種類は分かりません。この経ヶ峰にも茶畑があるのだろうか。茶の実をリスが運んでこの樹木のくぼみに隠したのでは。と様々想いが頭をよぎりましたが、見渡す周囲には茶畑はありませんでした。でも、数年前には茶の木がこの付近にあったのだと思います。
政宗は京と江戸の文化を敏感に捉え、それに勝る文化を伊達藩から発信する想いと自信を持っていた人物だと思っています。例えば、京で盛んだった茶の生産を伊達藩で奨励したことも分かっています。茶は南国の農産物です。当時、伊達藩でその生産を行うことには多くの困難があったのだと思います。政宗はどのような工夫をしたのだろうか。京都の雪降る寒い地域で育つ苗を選抜して伊達藩に運んだのだろうか。
政宗が奨励し、今に続く宮城産のお茶には桃生茶・河北茶があります。石巻市の北に位置する桃生町には、面積が少ないながらも静岡の茶畑を想わせるような名茶園があるようです。その畑では、5月の初摘み行事が行われ、宮城県の時節のニュースとして紹介されています。
茶は、椿や山茶花とおなじカメリア属の直物で、中国由来であることからCamellia sinensisと名付けられています。一方、椿はCamellia Japonicaであり、日本(Japan)の名が与えられています。実は、その北限は青森県の椿山だと言われており、椿山の椿神社付近には17haの椿の群生があるとのことです。まだ見たことはありませんが、茶もそこが北限なのかなと思います。でも、経済的な北限も当然考えられます。それは、秋田県の檜山茶だと言われてきました。檜山では伝統の檜山茶を絶やしたくないとしての活動も行われていますが、宮城県の桃生茶・河北茶に比べると生産量は少ないようです。東北での茶の生産は大変ですが、応援したいと思っています。
自分好みの食品を24時間いつでも購入できる環境の中にいる私たちと異なり、欲しいものは流通に頼らず自分達で生産せざるを得なかった時代、生と死があまりにも近く、明日を待つ余裕を持つことができない時代にどのような工夫が行われていたのかを勉強し、今に生かすことが重要だな~と思っています。
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